【音楽で食べていく005】東京と福岡の2拠点でマニア垂涎のハイエンドギターを販売〜サポートするBottom’s Up Guitarsを経営する重浦宏太さん(前編)

重浦宏太氏
「音楽で食べていく」連載の第3弾!

音楽や楽器にまつわる職業を生業としている人にフォーカスする連載「音楽で食べていく」。

3人目は、な、な、なんとチューヤオンラインと同じ楽器店さんの登場です。福岡県と東京都で店舗経営をされている「Bottom’s Up Guitars(ボトムズアップギターズ)」の代表・重浦宏太(しげうらこうた)さんにご登場いただきます。

チューヤオンラインとはまったく違うスタイルで、「ポール・リード・スミスのプライベートストックといえばボトムズアップギターズ!」と、全国のマニアから支持を集めているその内情に迫ってみました。

公式サイト:https://www.buguitars.com/

異業種から楽器店を起業するまで

重浦宏太氏とチューヤオンラインスタッフ中原志朗
取材はボトムズアップギターズ福岡サンパレス店にお邪魔しました(聞き手:チューヤオンライン 中原志朗)

ーー重浦さんは他の楽器店で勤務経験があった上で起業されたわけではないんですよね? どうやってボトムズアップギターズを立ち上げるに至ったのですか?

重浦宏太氏
重浦宏太さん

「はい、社会人の頃まで話を戻すと、電波高専を卒業してビクターJVC(現 株式会社JVCケンウッド)で「モノづくり」をやっていました。それが1999年くらいですね。あの『犬のマーク』がつくモノ、つかないモノ、色んなものを作っていました。

一気通貫、企画から製造とアフターサービスまで全部やるような部署で、さしずめ忍者部隊のようでした。そこに新入社員でただ一人、入社後3ヶ月で配属されました。クライアントにはあらゆる業種がいらっしゃいました。大手コンビニチェーン、他社メーカー、百貨店の外商部とかも……。

数年後、外資系企業にヘッドハンティングされました。アメリカや中国や台湾を拠点とするメーカーで、ソフトウェアとICの統合型製品を開発、販売していました。私はそれらを日本向けにローカライズする提案営業や、日本向けのプロジェクトマネージャーを任されていました。

それらの仕事とは関係なく、学生時代からバンドをやっていて、ギター、さらにいうとポール・リード・スミスが好きでした。ビジュアル、サウンド、フィロソフィー(哲学)、すべてが中学高校の頃から好きでした。

その外資系企業の出張で海外を飛び回っていると、本国でしかお目にかかれないモデルを手にすることができました。「もっと欲しいな」と思い始めて『じゃあ自分で輸入するか』と。

当時、現地で仕事をして、プラス1日はレンタカーで走り回って買付けのようなことをしていました。そうこうしているうちに何度もポール・リード・スミスに出入りするようになって『アイツはなんだ?』と。特にまだジョー・ナッグスさん(現Knaggs Guitars)がいたりとか。

自分で『楽器店をやろう』となったのは、勤めていた外資系企業の日本法人も経営が厳しくなり、いよいよ解散となり、まだ20代だし、と一念発起して『起業しよう』と決めました。そこから20年近く経過しましたが、今思えば個人事業主でも良かったかもしれないですね(笑)。


ビクターなどの大企業や外資系で、ちゃんとしたビジネスマンを経験したものですから『株式会社を作って……』という頭だったんでしょうね。まだ旧会社法の時代だったので資本金が1000万円なきゃいけないとかで、有限会社にしておけばよかったのに、とも思いました(笑)。世の中がこんなにも目まぐるしく変わるとは思っていなかったですね。

『なんでその若さで起業できたの?』といわれても“若気の至り”でしかないんです(笑)。カメラ機材のHAKUBA(ハクバ写真産業株式会社)って、有名な用品メーカーがあるんですけど、2000年初頭ってデジタルカメラがこれから本格的に普及していく頃で、当時専務だった南 英幸さん(現代表取締役)とお付き合いがありました。

『今の会社をやめてギターの輸入販売のビジネスをやろうかと思っています』とプレゼン資料を見ていただきましたね……。それまで一緒にカメラビジネスをやっていたのに、ギター屋をやるって言われても向こうは戸惑ったと思います(笑)。

その外資系企業が厳しくなっていったというのもあり、『ウチにおいでよ』とも言っていただいて。ただ3年やってダメでもまだ20代だし、という甘い考えもありました。当時25歳でした。まあ無謀ですよね(笑)」。

ーー重浦さんが物凄い能力をもっていることは私たちにはわかりますけど、当時、周りから見れば大丈夫か? と思われますよね。どうやって楽器店をオープンさせたのですか?


「今日、お越しいただいているのは福岡サンパレス店ですが、最初は東京から始まりました。

最初からポール・リード・スミスの中でも頂点となる”プライベートストック”がやりたいと。10topやアーティストパッケージなどもありましたが『一番上からでしょう!』という。プライベートストックは理想を叶えられるものですが、オーダーメイドのものが好きだったんでしょうね。

ボトムズアップギターズ福岡サンパレス展にならぶポールリードスミス
福岡サンパレス展にならぶポール・リード・スミスはどれもスペシャルなモデルばかり

楽器店といえば、雑居ビルの奥の方みたいな文化もありますが、こうした高級舶来品はちょっと違うだろうと思い『一番いいものと高級な街並みはセットだろう』と。

前職のビクターの部長が、それを聞きつけて『独立するらしいね。物件あるよ』と連絡をいただいて。前の上司が物件の大家さん……と、新たなお付き合いが始まりました。その上司は自分にとってメンター的な存在ですね。

田園調布で2店舗目に移ったときの大家さんも同様ですね。そうした人たちは共通して何かを決めたら短時間で突破する力があります。そういう人たちの影響が大きいですね。

あとはお客さんですよね。仕入れたギターは見せびらかすためのものではないですから。そういうものが輪になっていったのだと思います」。

「ヤベえ店がある」〜マニアがインターネットを介してサイトに辿り着く。

ーーまずポール・リード・スミスが好き、知ってもらいたい、買ってもらいたい、サポートしたいという願いがあったということですね。ただ、お店を作ったからといって最初からお客さんが来るとは思えないのですが、オープン当初はどんな感じだったのですか?

「それが、時代も合っていたのかもしれないと今なら思えるくらいポール・リード・スミス好きが集まったんですよね。

その2002〜3年当時って、高画質の写真をたくさん載せている楽器店がそんなに無かったんですよね。ポール・リード・スミスは美しいギターですから、高品質カメラも買って美しい写真を高画質で沢山ウェブサイトに掲載しました。

店舗を始める前からそれはやっていて、田園調布の住所でスタートしたときにも関東圏の方たちからは、『あそこなら大丈夫だろう』的な見られ方はしていたんだと思います。

『なんかヤベえ店があるぞ』という認識が広まって、ポール・リード・スミス・ファンからのプライベートストックのオーダーが入るようになりました。しかも一度も会ったことがない人からのご注文も頂いたこともあります。

今の時代、電話って迷惑な存在になりがちですが、当時から電話でコミュニケーションするのが嫌じゃないどころか好きですし、私はメールも可能な限り即座に返します。逆にLINEとかメッセンジャーの方が通知を鳴らしてしまいそうで深夜に返せない。今のほうがツール的に気を遣う感じになっていますね。起こしちゃいけない、みたいな」。

東日本大震災が契機となり福岡店をオープン

ボトムズアップギターズ福岡サンパレス店の内観
福岡サンパレス店の内観

ーースムーズに軌道にのったんですね。そしてこちらのお店ですが、熊本出身ということで福岡サンパレス店をオープンされたのですか?

重浦宏太氏


「良い質問ですね!(笑)。

よく『福岡出身なんですよね?』と聞かれます。なんなら先に福岡店が先にオープンしていたんですか? って聞かれます。そこから東京進出した、みたいな。

自分は、もう人生の半分以上が東京なんですよね。この福岡店はちょうど10周年なんですが、東京店はオープンから17年と倍近くやっていることになります。

福岡サンパレス店はコンサートホールがあって、その館長も楽器マニアなのですが、当時『博多には専門店がなかっちゃんね〜』と仰るわけです。では一回見に行きますねとなったんですが、最初の田園調布の1店舗目のこじんまりとしていた時代を思い出して、もう一回1人でやりたいな、という感情が湧いてきたんです。

2011年の東日本大震災があって、世の中色々と変わりましたよね。国民のほとんどの人が、どこか遠い街で起こっている他人ごとのような感覚があると思います。自分は横浜の埋立地であの揺れを体験し『これは東京が壊滅してしまうんじゃないか』と感じました。それほどの強く、続く、揺れでしたね。

従業員やお店、家族、そして放射能などの心配ごとが出てきて、これはヤバいぞと。

そんな中、お客様の存在がありがたかった。パニックのさなか『お店、大丈夫ですか?』とか『キズ物がでたら引き取るから』と言ってくださる方もたくさんいました。

私たちのギターを売るという職種って、どこか特殊な世界だと思います。こだわりの強いお客様もたくさんいらっしゃいますが、親身になってコミュニケーションを続けて内面に入っていくと、やがて打ち解けられる。

お客様を知らずに、接客や商品販売をするのは、うちのスタイルとしては違う。そこまで踏み込んで関係性を作っていく感じですよね。

そうして、サンパレスの館長さんとの出会いもあり、ここ福岡店をオープンさせることに繋がっていくわけですが、10年前はまだ体力があって、ここでも若気の至りが発動しました(笑)。


サンパレス店を立ち上げ、3年目には店を社員に委ねて東京に戻りました。すると、続々と大阪や名古屋にお店を作ってよ、という声を頂きましたね(笑)」。

新型コロナウイルスが新しいブランドとの出会いに

国産ブランドも充実
国産ブランドも充実

ーー海外のハイエンドブランドがメイン、という印象でしたがここ数年は国内メーカーも取り扱うようになりましたよね?


「まず “ボトムズアップギターズ” というお店で取り扱っている製品については、すべて信頼のおけるものである、という一つの基準のようなものがあります。そうした信頼のおけるモノづくりをしている人たちと仕事がしたいと思っています。さらに言うと『寝食を共にできるくらいわかり合えるビルダーさん』の作品を販売し、またケアしていきたいです。

十何年、お店をやっていると業界内でのポジションも出来てきて『ウチも扱ってほしい』という声も出てくるわけですけど、作っている人たちの顔がわかるというか、相互認識できるというか、かみ合うところに絞っていきたい。もちろんまだまだ扱えていないメーカーさんもたくさんあるわけで、そこは“出会い”なのですぐにどうこうという感じではないんですよね。

そういう踏み込んだお付き合いができるブランドが徐々に増えてきた感じですね。

ポール・リード・スミスも同様で、工場まで行って、こういう人たちが作っているというのを見て感じているからこそ取り扱っています。他のブランドも必ず工場を見に行かせてもらうんですよね。現場を見て自分の中で腑に落ちる行程を経ているからこそなんです。

たしかに起業当初は舶来物にこだわっていた部分もあります。アメリカで作られたものに限定したい気分の時もありました。しかし昨今の新型コロナウイルスの流行によって、欧米と自由に行き来ができなくなって、オーダーの細かいニュアンスが伝わるか? という問題もありますね。その点日本であれば直接行ける距離ですのでこの目で確認できます。

zoomなどのオンラインツールが登場しましたが、直接確認できる機会が国産メーカーだからこそ増えている、ゆえに取扱いが増えているということでしょうね。

数年前は、よく販売店さん同士、それこそ中原さんともポール・リード・スミスのオーダーツアーとかも行かせていただきましたよね。国産メーカーでももっとそういうイベントが増えても良いんじゃないかって思います」。

腕相撲勝負をする重浦宏太氏と中原
オーダーツアーで腕相撲に勝利した方が珠玉の1本を手に入れることができた(嘘)
重浦宏太氏と中原
本当は仲良し

まとめ

ボトムズアップギターズ

重浦さんの起業当時から福岡店のオープンについてお話いただきました。後編では、未来の話、楽器店という職業などについて語っていただきましたので、そちらもあわせてご覧ください!