【音楽で食べていく003】プレイヤー兼チューナーとして唯一無二の存在感で全国を飛び回る有松益男さん(前編)

有松益男さん(BACK DROP BOMB、el tempo...他)
有松益男さん(BACK DROP BOMB、el tempo、etc)

「音楽で食べていく」、2人目の登場は「BACK DROP BOMB」のドラマー、数々の著名アーティストのツアーやレコーディングに参加、さらにドラムチューナーとして多くのバンドの現場に引っ張りダコである有松益男さん。北九州市のご出身ということで、上京してプロになるまで、そして現在のライフワークでもある「ドラムチューナー」としての生き方を語っていただきました。

有松益男さん プロフィール

有松益男氏

バイオグラフィ

1995年 08月KEMURI結成
1995年 12月BACK DROP BOMBに加入
1996年 05月KEMURI脱退
2003年 07月ERSKIN結成
2004年 06月ERSKIN脱退
2005年 11月BACK DROP BOMB脱退
2010年浅井健一、照井利幸とPONTIACSを結成
2013年BACK DROP BOMBに再加入

ツアー&レコーディング

ドラムチューニング

公式サイト
http://www.masuo440.com/

Instagram
https://www.instagram.com/masuo440/

Twitter
https://twitter.com/masuo440

北九州から上京

チューヤオンライン伊藤辰太郎(左)と有松益男氏(右)
聞き手はチューヤオンライン伊藤辰太郎(左)

※取材は7月下旬に行いました。

――地元・北九州から東京への上京はどんな感じでしたか?

「1人で上京して、音響関連の専門学校に行きました。

その前に地元ではバンド活動していましたよ。平成に入った頃、いわゆる第2次バンドブームで。ビートパンクとかメタルが流行っていて、ガンズ(・アンド・ローゼス)が出てきたり。

自分は、鉄アレイとかをコピーしたりしてハードコアパンクに傾倒していましたね。その人たちはバンドで食べていくとかじゃなくて、純粋にカッコいい音楽をやろうっていう集まりだったんですよね。そんなカッコいい先輩バンドが身近にいました。

高校生活も終わりに近づいて進路を決めるタイミングがくると、大学だとか就職を考えるわけです。自分は音楽でメシを食いたいけどドラムじゃ無理だなって思っていました。キチンと習ったわけじゃないですし。当時は好きなパートを選んでやっていただけでしたからね。回りを見てもたまにレーベルの偉い人から声がかかる人がいたくらい。

ドラムで食べていけなくても音楽に携わる仕事がしたくて、音響やPAなどの技術が学べる日本工学院(東京都大田区西蒲田)に入学しました。

でも、半年経ったくらいでアレっ? と思うことがあって。ミキサーのいじり方とかを学べると思ったら、いつまでもハンダこてを持って基盤とかをさわっているわけです。

あるとき、先生に「いつになったらスタジオワークなどの音響の授業に進むのでしょうか?」と聞いたら、『それは音響芸術家』だよ」と言われました(笑)。音響『工学』科で機械いじりの方だったんですね。それが第一の挫折です(笑)。裏方の仕事ができると思って進学したのですが、入る科を間違えました。

そこで『よしまたバンドやろう』となったけど、学校にはバンドやってそうな人がいなかったんですよね。地元が同じで東京の服飾系の学校に行っている同級生から紹介してもらってバンドをはじめました。

それから卒業間際、20歳当時のタイミングで学校の関連のローディー会社に入れば? と入社試験も必要無いくらいの話もあったりして。だけど『ちょっとそれはイヤだな』と思ったんですよね」。

2度目の上京。KEMURIとBACK DROP BOMB

「結局、卒業して北九州に戻りました。またバンドやりつつ雑貨店や楽器店で働いて。

2年が経ったころ、また東京に行きたくなった。そのときのバンドのメンバーが辞めるとなって、また一からバンドを組むというのが大変に感じました。

東京のほうが人口も多くバンドもやりやすいだろうと。東京からツアーでWRENCHGARLIC BOYSと一緒に回っていたりしたので余計にそう感じました。当時は、音を聴くことや情報を得ることが簡単じゃなかった。今のようにネットも発達していなかったので見つけることが容易じゃなかったですよね。

近くのレコード店で働いていた津田さん(津田紀昭氏 KEMURIのベーシスト)と、いつもお昼ごはん食べていて、ある日『東京行こうと思うんだけど』って相談したら『俺も行こうと思ってた。一緒に行こうよ』となって。

『アテはあるの?』と聞かれて『ないんですけど、ドラムは叩きたいです』といったら『フミ坊(KEMURIのヴォーカル:伊藤ふみお氏)ってヤツがいてさ。ドラムいないから叩く?』っていわれて。そういう軽いノリでKEMURIがはじまったんですよね」。

――KEMURIのはじまりですね。

「上京前に津田さんと西小倉のリハスタで3曲くらい作って、上京して向こうでも何曲か作ってからレコーディングしたんですよね。

それが自分にとってはじめてのレコーディング体験でした。ただ、ふみお君がアメリカに行くことがすでに決まっていて、長く続くバンドという感じではなかったんですよ。津田さんと一緒にバンドやろうとなっていたところ、ふみお君が帰ってきて『KEMURIをやる』ことにしたっていう感じですね。

すでにBACK DROP BOMBに加入していてどうする? ってなって。平行していくのは難しくてKEMURIには戻らなかったんですよね。その頃はまだ音楽で食えるとは思ってなかったです」。

東京での生活

有松益男氏

「最初は、荷揚げ屋とかの日雇い系でバイトをして、最初の家賃をどうにか稼いで、そこから酒屋で2トントラックで配達をしていましたね。お弁当屋さんの配達もやりました。

配達系のお仕事は、運転中に1人で音楽を聴けるのが良かったですね。BACK DROP BOMBのファーストアルバムを出した頃はまだバイトしていましたよ。

最後のバイト先は高円寺の服屋さんでしたね。そういえば、とある弁当屋さんはバンドマンがたくさんいて、『ハードコア弁当』って呼ばれてましたね(笑)」。

――バンドが売れてきて「もうバイトはできないな」という明確なタイミングはあったんですか?

「ツアーも忙しくなり、ライブ会場でチケットや音源、グッズなどの物販の収益が上がってきた頃ですかね。CDの印税も入ってきて。自分たちで事務所を持っていて、そちらにいく分と経費を引いて残ったのが自分たちの分。それがある程度見えてきた時に『もう無理かな』ってなってバイトは辞めました。

物理的にバンドに費やす時間が増えて、バイト先にも迷惑がかかるので。やはりバンドマンって、何かを諦めないとそこにいけない感じはありますよね。

家族に何かあって辞めざるをえない人もたくさんいましたよ。もちろん自分本位ではなくて家族や誰かのために働くことを選ぶのも大事なことです。そういう大きな人生の選択、それが食っていくってことだと思います」。

1人の音楽人として・ドラムチューナーとしてやっていく決意

有松益男氏

――自分もバンドで事務所が決まって東京に行くってなったとき、(チューヤオンラインの)社長が「ダメだったらまた戻ってきてここで働けばいいじゃん」って言ってくれて。ただそういう甘えがあると奮い立つものが無くなってしまったような感じがして、結局断念したんですよね。じゃあ楽器でミュージシャンをサポートしていく側になろうと思いました。

「自分も今はそんなところがありますね。BACK DROP BOMBも一回辞めて。

それまでは“時代”で売れていたところもあったと思います。もちろん今でもカッコいいことは出来ています。ただ“音楽で食べていく”ということに関してジャッジできるのは自分たちじゃなくてお客さんだと思っています。

時代が変わっていくのも必然で、お客さんも変わっていくし、新しいバンドや音楽も登場してきますし。それで1人で音楽人生を見つめ直そうとチューナーという道をやっていこうと思いました。

海外のバンドって、テクニシャン(ドラムテックやローディー)が上手いんですよ。なんならバンドのドラマーより上手い。ここが大きな違いで日本は“ボーヤ”の文化があって、対等な関係ではないですよね。そういうのを見てきて、日本ではそういうのが少ないから自分がそうなろうと。対等かそれ以上の立場で現場を良くしていける存在になろうと思いました。

格闘技のセコンドが良い例えで、そのジムの会長やチャンピオンがいる。その人がリングに上がったほうが強いわけです。でもそういう存在がいてくれるからこそ、試合中に的確なアドバイスを受けてプレイヤーが存分に実力を発揮できますよね」。

――プレイヤーは客観的にみてくれる人がいると安心できますよね。

「日本でそういう人を見たことがなくて。

今回の企画『音楽でメシを食う』ってところでいうと、学生でドラムをはじめて、上京して専門学校のコースを間違って入ったところも全部繋がっていて。その積み重ねが繋がって仕事になるなんて、なんて幸せなんだろうって。

ドラムのチューニングに関して、最初はお金になるようなことはなくて、そのうち認められるようになっていきました。

『音が良くなったよ』とか、ドラマーの『プレイが良くなった』とか、徐々に評価をいただいて、現場に呼んでもらえるようになって」。

ドラムチューナーが「仕事」になったタイミング

ドラムをチューニングする有松益男氏

――チューナーが仕事になったタイミングっていつですか?

「チューナーでお金をもらえたのは、まだバイトしているときかな。今みたいになるまで、バンドを辞めてから3年はかかっていますね。

でも、ドラムで食べていくのを一度諦めてチューナーになったはずが、チューナーの仕事が増えたら不思議とドラムを叩く仕事も増えました。

なんでかというと、そういうチューニングの仕事ってジャンルがまったく違うところに行くことも多くて、自分のことを知らない人たちから『叩けるんですね!』となって。

あるときUVERworldの真太郎君から直接頼まれてレコーディング現場に行って。プロデューサーの平出悟さんもドラマー出身で。

平出さん的には『チューナーなんて要らない』って感じだったけど、そこでチューニングしてみたら上手くハマって。『こんなにちゃんとできる人がいるんですね』って言ってもらえて。

その流れで、SOPHIAのレコーディングにチューニングしにいって、ドラムをチューニングしながら叩いているのを別のディレクターさんが見て、清春さんの現場にドラマーとして呼ばれて。どんどん人づてに広がっていきましたね」。

ドラムにもキーがある

――ドラムチューニングの世界って基準みたいなものがあるんですか?

「自分でも独自に調べたりしながらやってきましたが、チューニングの師匠である三原重夫さんという方がいて『ドラムにもキーがあるんだよ』と教えてもらって。

ドラマーって音階のある楽器に対して疎い人もいます。でも曲のキーを理解すると『ずっと鳴っていて良い音』がわかってきます。

ライブ会場やレコーディングなどの環境によって、チューニングの手法は全然違いますしね。同じドラムセットでも場所が変われば、当然チューニングが変わります。プレイヤーのコンディションも見て、その場で決めていかないといけないので、考えることはかなり多いです。

そういう情報を集積させた結果、ドラムチューナーを仕事にできたという感じですね」。

フェス会場でのチューニング

――今回は「NUMBER SHOT 2021」でサンボマスターさんのお仕事だったんですね。

「はい、PayPayドームはロー(低音)が回っていたので、ちょっと音を止める(サスティーンを切る)方向でチューニングしました。マイクで拾われた外音(客席に向かっているPAスピーカーから出ている音)が良かったのでよしよしと。手元で鳴っている音が少し違和感あるときもありますけど、最優先すべきは客音なので。フェスだとリハもなくて時間が無いですしね」。

笑顔の伊藤辰太郎と有松益男氏

取材後も活躍が続く有松益男さん

本取材後もますます活躍を続ける有松益男さん

Drum Magazine Webでは「新生SAKAEのジャパン・カスタム・スネアをW有松が検証!」の記事にて、ARIMATSUとMASUOの“W有松”によるSAKAE Drumのレビュー記事上がっています。

Drum Magazine Webの記事はこちらから

さらに!

感動の中、先日幕を閉じた、「東京2020パラリンピック競技大会」の閉会式に シシド・カフカさん率いる el tempo(エルテンポ)が登場!

※NHK公式サイトによる動画。2分53秒あたりから
https://sports.nhk.or.jp/paralympic/highlights/content/b1d00b37-20d5-4db9-998a-2e3960564daa/

もちろん、有松益男さんもメンバーとして参加されていました。

el tempo(エルテンポ)の出演をお伝えするニュースはこちらから

シシド・カフカさんのインスタグラムには演奏前(演奏後?)のel tempo(エルテンポ)の皆様の様子が上がってました!

お身体に気をつけて今後もますますのご活躍を!

後編に続く

上京当時からバンド活動、そしてチューナーに活路を見出してきたこれまでの人生について語っていただきました。後編では人生を切り拓いていくコツやミュージシャンとして大事にしているところなども語っていただいていますのでお楽しみに!

DRUMMERS TOP TEAMのアイテム、チューヤオンラインでも買えます!

有松さんともうひとり、村上正人さん(Assfort、Hellbent、R、恒正彦)で結成された「DRUMMERS TOP TEAM」を知っていますか?

現場でのドラムチューニングはもちろん、後進の育成からドラマーの可能性を広げるアイテムの開発・販売を行うプロジェクトチームです。チューヤオンラインでも「DRUMMERS TOP TEAM」のアイテムを購入することができます!

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(編集&撮影 赤坂太一